はいさい!ほんでもってジャンボ!!私です!!大河ドラマのおかげであんなに嫌いだった日曜日がとっても楽しみになりました。NHKの皆様、ありがとうございます。私は感謝して受信料を支払いしております。銀行引き落としでございます。早速先日の続きを記していきたいと思います。
将軍、足利義輝死す
永禄8年(1565)年、三好長慶から後を継いだ三好義継と三好三人衆、久秀から家督を譲られていた息子の松永久道ら一行は、あろうことか足利義輝を襲撃し殺してしまいました。裏で義輝が他の大名達とやりとりをしていたのかもしれません。通常であれば、考えられない事件ですが、それを可能にならしめる程に、三好家は凄く大きな力を持っていたのです。元々追放されていた足利家、その間は三好家が京都の平穏を守っていました。足利家としては、権力もほとんど無く三好家の意のままにことが進んでいく様が面白くなかったのでしょう。三好長慶の亡き今、権力を奪ってしまえと思ったのかもしれません。
久秀は、足利義輝の御供衆を勤めていながらに、身内が暗殺の実行犯ともあれば何をしているんや〜という感じですが・・。知っていて黙っていたのかはたまた、久秀には知らされずに、独断で実行されたのか、久秀の心境やいかに・・。と言った感じでございます。

久秀、三好三人衆と険悪な感じに
義輝を暗殺した三好三人衆は、、足利義栄を次期将軍に擁立することにします。義栄を将軍に担いだ三好三人衆ですが、久秀とはやっぱり性格が合わないのであります。畿内の勢力を巡って対立し、内乱が相次ぐのであります。そして、三好三人衆に主導権を奪われてしまうのでした。

ただ、裏切り者なのかか、知恵者なのか。ここで、千載一遇のチャンスが巡ってきます。三好家当主の義継が久秀を頼ってくるのです。なんと三好三人衆は、権力を手中に納め、あろうことか当主義継を軽んじ始めていたのでした。義継を保護した久秀は、勢いを盛り返し、信貴山城へと帰還を果たしたのでした。
久秀、東大寺燃やしてしまう。
永禄10(1567)年、三好三人衆は、久秀と義継を攻め込んできます。当主を殺害し、名実ともに実験を握りたかったのでしょう。

なんと戦場は東大寺付近、戦の最中大仏殿に火がついてしまい、大仏殿は焼け落ちてしまったのであります。なんとか久秀がこの戦も勝利するものの、三好三人衆が優勢を保っています。せっかく帰還を果たした信貴山城も奪われてしまいます。とある支城に流れ落ち、立て籠もりました。その間にある人物とやりとりを開始します。その人物こそ、織田信長なのでありました。

久秀、信長の臣下となる。
当時、織田信長は、足利義昭を保護していました。永禄11(1568)年義昭を連れて、上洛します。狙いは義栄から義昭に将軍を変更し、自身が権力を握ることでした。信長の力を見抜いた松永久秀は、すぐに義継と降伏をします。三好三人衆は、信長に蹴散らされ機内から追い出されてしまいます。信長の援軍によって、久秀は大和国を平定し、その支配権を認められたのでした。なんたるV字回復。久秀は、信長の臣下となったのでありました。
久秀は、仕事のできる男です。信長の元でもせっせと成果を上げていきます。三好三人衆との調停役にもなり、信長との和睦をまとめていきます。信長が石山本願寺を攻め始めた頃には、信長と義昭とは不仲となっていました。そうなんです。いつだって将軍はお飾りでは嫌なのです。自身も実権を握りたいのであります。
久秀、謀反失敗なり。
足利義昭はせっかく京都まで連れてきてくれた信長を亡き者にしようと「信長包囲網」を形成するべく、各地の戦国大名にはたらきかけています。 それに応じたのが甲斐国(山梨県)の武田信玄だったのです。戦国大名のビッグネームです。風林火山の武田信玄恐ろしす。
そして、ここぞ!というタイミングで、久秀は三好義継や三人衆と共に信長に反逆したのです。 あれ!三人衆と仲良くなってる〜。しかしその1年後に、肝心要の信玄が死んでしまいました。加えて、足利義昭は信長に敗れて追放され、三好義継も戦死してしまうのであります。三人衆も信長に敗戦、久秀はやむなく降伏することになりました。
むむむ・・。ここで信長にえげつない処刑をされてThe ENDかと思いきや、久秀の能力をそれ程までに買っていたのかもしれません。なんと命を奪わず許してやるのでした。ぬぬぬ・・さすが久秀!!
という訳で、今日はこの辺にしときたいと思います。本日も最後までお読み頂きありがとうございました。定期的に更新をしてますので、是非お気に入りに登録頂きまた見に来て下さい。ツイッターでも更新情報をアップしてますので、登録頂けると幸いです。

ではまた!お会いしましょう!!